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ほらほら日記・・・・・京都たかばし【旬彩barほらほら】の日常。

京都たかばし 旬彩barほらほら・・・場所は京都駅徒歩5分・京都駅東の通称「たかばし」。新福菜館本店と第一旭本店の南隣。・日本酒地酒20種・焼酎50種・漁港直送の天然新鮮魚介・居酒屋的フード&バー・個人店・飲み屋・利き酒・ワイン・一人飲み・京野菜・ジビエ・猪肉・自家製新鮮野菜・京都ならではのお話し・京都の歴史・京都検定ネタ・オフ会・会合・打ち上げ・女子会・ひとりめし・ひとりご飯・一人酒・歴史ネタ・高速 夜行バス待ち・horahora・その他モロモロ。店長篠田繁彦の見たよろずばなし。

第一回ほらほら身代わり観光の報告【後編】

 つづきです。

 新選組高台寺月真院に屯所を置いた伊東の勢力との戦いがあった油小路七条を見てお次は西本願寺さん。

境内にある案内表示板を見ると、

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鐘楼はBell Tower

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新撰組の屯所の置かれた太鼓楼はDrum Tower

 

 

なんとも新鮮な気持ちになりました。

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西本願寺北東に今も残る太鼓楼。

最近になってお寺側と新選組とのやりとりのわかる古文書が発見され話題になっていました。

新撰組が無理やり力ずくで乗り込んだイメージがありましたが、西本願寺に対しての微妙な気遣いの見られる文書であったとか。

【暴力】を使わない神経を使った攻防もあったようで面白いものです。

西本願寺の北の通り花屋町通りを西へ、大宮通りを越えて島原へ。

明治22年の地図によると、大宮通りより少し西で市街地がなくなり田畑の広がる中にぽつんと京都六花街のひとつ日本最初の官許の廓【島原】があったようです。

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この地図の朱雀村と中堂寺村と書かれた間にある建物群が島原。

島原の西の田んぼの中を南北に通るのは千本通り。

千本通りの西、南北にある長い堤は豊臣秀吉聚楽第の城壁として築造された【お土居】

現在の京都市中央市場やJRの山陰線の高架付近あったそうです。

この島原も壬生村からも洛中を護る【お土居】に沈む夕日を眺めていたのでしょう。

しかし現在の山陰線の高架のおかげ(?)で旧壬生村付近までは当時と同様の夕日なのかもしれませんが。。。

今ではお茶屋さんが無くなった島原。

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江戸後期に建てられた島原大門。

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門をくぐると数件 昔のたたずまいを残す建物があります。

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中でも有名なのがこの輪違屋さん。
軒先瓦に高島屋のような【高】紋様がありました。

一つ割れたら修理高くつきそうです。

そして角屋さん。

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建物が国の重要文化財になっている角屋さんは

久坂玄随密議の角屋、新撰組刀傷の角屋、とも言われるようで

今では角屋もてなしの文化美術館となっていました。

・・・が、この日の目標は壬生まで。

角屋さん見学は後日(泣)

島原はその特殊性からか千本通りからも大宮通りからもまっすぐ通り抜けられません。

どちらからも鍵の手に曲がっているのでした。

角屋さんの角から西の角には東鴻臚館址の石碑が。

平安京のメインストリートの朱雀大路は現在の千本通りや山陰線そして中央市場あたりまであったそうですが都の入口羅城門の近くに朱雀大路を挟んで東と西に鴻臚館という異国の使節を迎える大きな建物があったそうです。

島原の大半がすっぽり入るくらいだったとも。

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そして千本通りに面する島原西門跡。

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西門は昭和に入ってから二度の輪禍によって倒壊したそうです。

輪禍→すなわち自動車事故ってことですよね。

新選組隊士の他 幕末の志士たちの多くが通ったであろう門です。
古い写真があったら見てみたいものです。

ここからは、当時壬生村まで両側田んぼと お土居の竹藪しか見えなかったであろう千本通りを壬生まで歩くことに。

途中寄り道、千本五条通付近のJR丹波口の駅構内には、

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この柱の下には、

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東側溝より58メートル地点・・・って、なんか意味が分かるようなわからないような微妙な内容の石碑ですが

こんな場所にある石碑って普通見つけられません。

色んな情報をお持ちの方々と一緒だからこそ教わった情報。

ありがたいものです。

少し寄り道したので急ぎ壬生へ。

 壬生寺のまわりは結構狭い道。

古い地図を見ると洛中でありながら住宅地のはずれ。位置的に農村的な色合いが多少あったかも。

道の雰囲気も整然とした碁盤の目の地域とは随分異なっています。

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そんな規模の集落の中でひときわ大きな壬生寺。

壬生狂言で有名なのに未だ見たことがありません。

是非近いうちに拝したいものです。

そして新選組最初に屯所が置かれた旧八木邸。

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時間が無かったので表からのみ。

そして近所の旧前川邸へ。

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とても大きく立派な建物です。

よくぞ今まで残してこられたものだと感心します。

相当な維持費がかかったことでしょう。

新撰組によって結構強引に屯所にされ、あっちこっちで斬り合い、切腹、取り調べ(拷問)など、これが昭和の戦後の出来事なら当然持ち主にとって思いっきり心理的瑕疵(かし)のある物件といえるんじゃないかな~。

しかも新選組が去るときに持ち主に渡された謝礼が当時でも信じられないくらい少なかったとか。

新選組が美化されて伝わってることが多いけど、とんでもない迷惑やとばっちりを受けた人が多かったはず。

そんな記録ばかり探してる人がいたら会ってみたいし本や資料があったら是非見てみたいものです。

ちなみに私は新選組が好きとか嫌いとかじゃなく、そのリアルな背景にとても興味がございまして(笑)

そういう伝わりにくいものこそ大切にしたいな~と思うのです。

この前川邸、幽霊とか出るのかな?いや、出てもおかしくないはず。

余談でしたが、前川邸から東へ光縁寺さんというところには

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新選組の墓 との石碑が。

ここで絶滅したわけじゃないですけど。

しかし、前川邸などで命を落とした隊士らのお墓があるそうです。

高い志しと使命感をもった若い人たちが命を落としたわけです。

賛否はともかく江戸時代から明治へと、大きく国が変わろうとしたときに大勢の人たちが犠牲になったのだと知っておく必要があると思うのでした。

 

次回企画も乞うご期待!