本当に遅くなってしまいましたm(__)m
実は当日私がスマホの予備バッテリーを忘れてしまったため
途中から写真撮れず中継なアップもできず・・・
要するに遠方からご覧いただいていた方の【身代わり未遂】に終わったのでありました(泣)
・・・で参加者の皆さんからの写真を集めようやく今頃というわけです。
というわけで、1月25日のもよう。
第一回は、【ほらほら】→【新選組最後の屯所跡付近】→【西本願寺】→【島原】→【壬生】というコース。
昼前に【ほらほら】に集合していただき皆さんと情報交換
ほらほらにある明治22年測量の地図と現在を比較しながら
明治維新からわずか22年後でこの精密さです。
現在の大宮通あたりを境界に千本通以西の建物の少ないことに驚かされます。
この当時蒸気機関による鉄道はすでに存在し明治28年の2月には日本初の電気鉄道が施設されたとのこと。
この地から南へ中書島までの路線が一番最初だったとか。
大阪湾や琵琶湖、鴨川・桂川・木津川からの水運を使って当時栄えた伏見港(中書島)まで人を運ぶ需要が高かった証拠なのでしょうね。
表示板が【南行】だったり、車両側面に【第九】と【No9】が併記されていたり、
高すぎるステップとか、今ではありえない装飾など、細かい部分をツッコミだすときりがありません。
そして塩小路通を西へ、最初に目につく古い建物は関西電力のビル。
現在の京都中央郵便局の北側にある建物。
写真は撮っておりませんが建築当初からオール電化ビルだったらしいです。
現在のハトヤさんの角
【新選組最後の洛中屋敷跡】との石碑
このあたりから少し西へ行くと
【新選組まぼろしの屯所】と書かれた提灯のあるその名も不動堂。
さらに西へ堀川通の西南角リーガロイヤルホテルの角には立派な石碑が。
説明板は日本語と英語が併記。
しかし・・・・
英訳と日本語の内容が違うと! さすがするどい観点の参加者さんたち!
しかし、はたして新選組最後の屯所ってこれだけ大きな規模だったのでしょうか?
実際のところ正確な所在はわからず、【不動堂村】の【このあたりだろう】という感じだとも言われています。
移転した経緯や以前の屯所の規模を考えると・・・
ご近所の方々の家に残る古文書などを片っ端から解析したらすぐにわかりそうですけどね~。
それをできないのが京都なのかも(笑)
続きまして油小路木津屋橋に残る【伊東甲子太郎他数名殉難の地】
元新撰組の伊東甲子太郎の勢力(屯所:高台寺月真院)と対立した新選組の近藤勇らが伊東を招いて酒をふるまい酔った伊東を帰路この地で刺殺した・・・とあります。
伊東が殺されたその夜に高台寺月真院にいた伊東の仲間と新選組が油小路七条で・・・
こんな狭い道で殺し合いがあったのです。
昔ながらの京都の人は我が身に火の粉が降りかからぬよう、でも興味津々で見てたのではないかな~なんて考えてしまいます。
そんなこんなでこのお寺の前で石碑を見ていると突然気さくなおっちゃんが!
【ここの住職亡くならはって今留守やねん。ワシ鍵預かってるさかい中見ていき】
とのこと!
古い石碑には折れた跡が!
これはなぜかと思ったら、昔の古い門が強風で倒れて石碑も折れたとのこと。
柔らかい口調で少々カラクチ、いかにも京都って感じに語る世間話しは絶妙。
私たちを遠方の観光客と思い丁寧に接してくださったオッチャんに感謝。
今更 比較的近所ですねん・・・とは言えなかった。
このオッチャンからもうひとつ貴重なお話をいただきました。
この油小路通りって、オッチャン曰く京都で一番長い南北の通りだとのこと。
南は塩小路、北は山裾まで。
確かに北を見るとまっすぐに気持ちよくとおってます。
一度【油小路を歩いて制覇!】っていう企画をやりたいな~と思いました。
そしてこの油小路木津屋橋周辺は その昔 数件の油屋さんがあったそうです。
今は油の資料館を兼ねた一軒のみ。
古い道具類が展示され、昔ながらの製法による各種油が売られていました。
つづきは後編 西本願寺~島原~壬生ルートをご報告いたします。